2015年1月15日木曜日

瞑想について、ブータン仏教について思うこと。

3が日から出ていた出張から帰ってきても、まだ日帰り出張が続いている。なんとなく落ち着かないが今年はそういう星回りなんだろうか?

今週は3回も日帰り出張が入った。そのうちの一箇所、タンゴ僧院はティンプー市内から北へ車を1時間弱走らせて、そこから1時間半くらい山を登ったところにある寺院。

同僚がわたしのカメラで撮った写真。垂直をチョルテン(仏塔)で取るかダルシン(旗)でとるかで随分雰囲気変わりそう。
前回タンゴ僧院に行った時、寺院内部の急な勾配の伝統的なつくりの階段から足を滑らせ大変な思いをしたので、慎重に調査することに…今回は安全に帰宅出来てほっとしている。


さて。
実はこの寺院の上の方の一般人は入ることが出来ないエリアに僧侶たちの瞑想小屋が立ち並んでいる。ここではひとりの日本人の僧侶が3年間の瞑想をする為に先月から篭って生活をされている。彼とは2年位前にブータン人の僧侶を通して知り合ったのだけれど、まったくもって面白い考えの方で何度か話をする機会があったことはとても運が良かった。

面白い考えというのは、わたしの友人や知人の中に仏教や密教や霊的なことについて語る人がそう多くないのでそう感じただけで、会話をしていて笑わせてくれるような面白さではない。彼はこの3年間の瞑想期間中、基本的には師匠以外の他人に会うことはないそうだ。そこまでしないと仏に(?菩薩に?涅槃に?悟りに?)辿り着けないんだそうだ。なんでも極めるというのは大変だなぁと思う。

仕事柄、多くの修行をこなして立派に勉学を終えて高い地位にいる僧侶と話をする機会が多い。そういった方々はもちろん、瞑想の修行も何年もまた何回もいろいろな種類をこなされている。瞑想をして得られることとはいったい何なんだろうか。誰に何度話を聞いても『霞を食って生きていける仙人ってきっとこんな感じなんだろうなぁ』と思ってしまうわたしは、雑念だらけの一般人からいつまで経っても抜け出せないんだと思う。今のところは、抜け出す必要性も感じてはいないんだけれど。

ブータンでは珍しいのだが、一般人でも(僧侶でなくてもという意味)とある寺院で数日間、山に篭って週末瞑想的なことが出来ると聞いたのでやってみたいと申し出たことがある。師匠(偉い僧侶)はゾンカでの指導しか出来ないし、君はお祈りのための魂込めてもらってないから意味がないよとやんわりと断られた。なに?魂が入ってないと祈っても意味がないわけ?じゃぁ今までのは全部無駄なの?と重ねて聞くと、完全に無駄じゃないけれど中身はすかすかだよね…と。

祈りがすかすか…そんなこと聞いたこともなかった(笑)わたしの祈りは果汁5%くらいのジュースの薄さみたいなものなのだろうか…100%ジュースみたいに中身ぎっしりで美味しい仕上がりにするには外部から魂を入れてもらわないといけないようだ。どうせ祈りを捧げるならば、中身ぎっしりにしたいと欲張りに考えちゃうんだけれど、そういうのも物事に執着してるってことでよくないんだろうか?ブータン仏教ってハードル高いなぁ。

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